会議の意味とは……

20年以上前、広告批評という雑誌主催のコピーライター講座に通っていた。2つのクラスのうち、隣のクラスが「佐々木宏先生」担当で、その頃からすでに有無を言わせず「すごい人やな」と感じさせる実績のある人だった。また、特別講師で来ていた「中島信也先生」もカップヌードルのCM映像を見せながらクリエイターの心得を熱く語っていた。
いずれの先生も時同じくして偶々ひょんなことから世の注目を浴びてしまい、いたたまれない立場となってしまった。
中島さんはちょうど巡ってきた人事の不運ともいえるが、佐々木さんの扱いにはいろいろと考えさせられた。
確かに「オリンピッグ」という居酒屋の冗談にもなりえないようなネタを提供したのは、一社会人としても一クリエイターとしても(実績を顧みるに私は後者の衝撃が大きい)いかがなものかと思う。しかし、あくまで数人からなる会議出席者の一人が出した意見であって、かつ他のメンバーから諫められて反省して撤回したというのであれば、辞任まで追いつめられる事案だったのかな、というのが正直な印象だ。
いろいろな意見を戦わせて、愚にもつかないアイデアが出た場合はしっかり批判して、ちょっとよさげな案があれば他の人が少しずつ肉付けして完成品に近づける。そのための合議体ではないか。それこそが民主主義なんじゃないの?と思うのだが、過去のLINEを暴露されてあっけなく演出のトップを降りることになった。
よっぽど嫌われていた人なら仕方ないが、そうでないなら今回の降板劇はいささかすっきりしない印象をもたせる。
決して身体的特徴を揶揄するのがよいとは思わない。そこを弁護するつもりは毛頭ない。しかし、ちょっと面白いかなと表明したアイデアが他の人の批判にさらされて「まずかったんだな」と気づかされたのであれば、それはそれで佐々木さんにとっては貴重な経験だったし、みんなで演出を作り上げる意義もあったというものだろう。
会議の場が「変なことを言うと立場を失う、首を切られる」という緊張感に満たされていては、自由闊達な議論は期待できないし、コロンブスの卵的な発想も生まれないだろう。公序良俗に反しない限り、尖ったものの見方は許容されるべきだし、そうでなければ会議の意味はない。
ただ、やっぱりスピーチは事情が違う。放った言葉がそのまま公にされるのだから、一定の常識と感性を「わきまえた」人でないとスピーカーは務まらない。森喜朗さんと佐々木宏さんは相次いで立場を追われることになったが、その重みはかなり違う。
今回の一件が、この国特有のムラ社会的ななあなあ加減に拍車をかけるものではなく、健全な価値観を後押しするものであることを切に願う。