神戸市・東須磨小学校の加害者4教師が書いた謝罪文総まとめ

神戸市のみならず今や全国規模で次の展開が注目されている東須磨小学校の教員いじめ事件。ついに加害者の謝罪コメントが発表されました。

※以下謝罪文全文、神戸新聞NEXTより転載。

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 【30代男性教員A】

 ここまで被害教員を大切に育ててこられたご家族の皆さま、このたびはこのようなあってはならない事態を引き起こしてしまい、大変申し訳ありません。ご家族の皆さまには直接お会いして、謝罪の辞を述べさせていただきたいと思います。

 東須磨小の保護者の皆さま、そして子どもたちに、おわびをしなければいけません。いけないことを教える立場の私が、加害者となり、混乱と不安を与えてしまうことになってしまいました。信頼を裏切ることになってしまったことを、深くおわびしたいと思います。本当に申し訳ありませんでした。

 【30代男性教員B】

 自分自身の相手への配慮に欠ける言動や、軽はずみな言動に、最低な人間だと実感しました。一社会人として、人間として、恥ずべきことと考えています。もし、許されるのであれば、被害教員やご家族に直接、誠心誠意、謝罪したいと思います。

 東須磨小の児童、保護者の皆さん、自分の身勝手な言動で、たくさんの迷惑をおかけしました。この事案を機に自分の在り方をしっかりと見直し、自分の言動に対して猛省を続けたいと思います。本当に申し訳ありませんでした。

 【30代男性教員C】

 相手のことを思いやらずに、自分勝手な行動で相手を傷つけたことを反省しています。被害教員をはじめ、私の行動で嫌な思いを先生方にさせてしまい、申し訳ない気持ちでいっぱいです。

 東須磨小の子どもたちや保護者の皆さんには、申し訳ない気持ちです。私の犯した行為は、許されることではありません。東須磨小の子どもたちは、素直な明るい子どもたちなので、そこを伸ばしてほしいと願っています。ただ、私の行為はその成長の邪魔をしてしまったと思っています。

 【40代女性教員】

 子どもたちに対しては、こんな形になって申し訳ないです。子どもたちを精いっぱい愛してきたつもりですが、他の職員を傷つけることになり、子どもたちの前に出られなくなり、申し訳ありません。私の行動で、迷惑をかけてしまったことに対して、本当に申し訳ないと思っています。

 被害教員に対しては、ただ申し訳ないというしかありません。被害教員のご家族に画像を見せられ、入院までしている事実と、苦しんでいる事実を知りました。本当にそれまでは、被害教員には自分の思いがあって接していたつもりです。自分の行動が間違っていることに気付かず、彼が苦しんでいる姿を見ることは、かわいがってきただけに本当につらいです。どうなっているのかと、ずっと思っています。

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まず、教員Aから見ていきましょう。第一に、なぜ被害者本人への謝罪がないのでしょうか。被害者のご家族、学校の児童たちに謝罪の意を示して、何となく謝る範囲を広げて事の重大さを認識しているアピールをしていますが、肝心の核心がゴソッと抜けています。

第二に、自分の言動について抽象的な書き方をしているのが気になります。「あってはならない事態」「混乱と不安を与える」などぼやかし方がいかにもお役所的。謝り方が抽象的になると、どうしても他人事のように聞こえてしまい、かなりマイナスイメージです。人の体を傷つけ、心をボロボロにした数々の所業を述べなければ、何を反省しているのかさっぱりわかりません。

ご家族だけとはいえ、直接会って謝罪の意を述べたいとしている点は素晴らしいと思います。真正面から人に向き合った具体的な表明ができればもっと良くなるのに残念です。

次に教員Bです。短いながらも比較的内容はまとまっていて、反省の思いが伝わってきます。被害教員に謝罪したい、と書いている点も率直で評価に値します。猛省を続けたい、として今後に触れていることもポイント高です。

ただ、「言動」の頻用、「最低な人間だと実感しました」という表現が、やや稚拙な印象を与えます。国語はあまり得意でないのかもしれません。

続いて教員Cです。自身の行動を振り返り、被害教員への謝罪の意を示し、子どもたちに及ぼした悪影響についても反省していて、謝罪文の要点はとらえています。

ただし、この方も「申し訳ない気持ち」「子どもたち」が連続していて、体裁に難があります。また、謝罪の意の具体的な示し方を書いていない点が惜しいところです。

最後に“女帝”といわれている女性教員です。4人の中でいちばん酷い内容です。第一に、文頭から子どもたちへの謝罪で入っていること。これはないでしょう。確かに児童も被害者ですが、まずは被害教員に謝るべきです。謝罪文として文章の土台がぐらぐらです。

第二に指摘されるのは、言い訳がましい書き方です。「自分の思いがあって接してきた」「自分の行動が間違っていることに気付かず」「かわいがってきただけに本当につらい」など、とにかく自己弁護、正当化のオンパレードです。これは謝罪文で決してやってはいけないこと。むしろ、告訴の成り行きを意識してとぼけているようにも思えます。

第三に、謝罪文の要素が抜け落ちていること。誰にどう謝るか、何が悪いと思っているか、今後どうするか、何一つ具体的に書かれていません。最後までとにかく全部ごまかして逃げ切りたいのか、または人の痛みを理解できる心がそもそもないのか、どちらかだとうかがえます。

最後に、気になったことを二点。一点は会見で直接謝罪しなかったこと。もう一点は「自分には教師の資格も資質もありません。職を辞し、時間を全てこれまでの振り返りに当て、人の気持ちを想像して行動できる人間に生まれ変われるよう、一から出直します」という趣旨の言葉が誰からも発せられなかったこと。事の異常性を認識し、心から反省しているのか疑問に思ったのは、私だけではないはずです。